2013年11月14日木曜日

暖簾におしてみる、腕

凄く立派ないい菊なんだけど、最近の心境と相まって葬式にしか見えなかった。
だとしてもこんな葬式は立派な葬式だ。hima://です。


例えば悩んでいたとして、それも後々調子のいい時に見たら本当に馬鹿らしいのはわかってるんだけどなあー。寒くなって来てどんどん油の切れた機械みたいになってきた。
弱音じみたことをこうやってブログに書いて自分を見つめようとも思うけど、それも結局繰り返しで一生続くだろうし、みっともない事は極力控えたい。
それにしてもtwitterの140文字っていうのは人間に長文を書かせる力を奪わせるなー。一昔のネット上だったら絶対に指摘されてたであろう事がまかり通ってる。この時点で多分古い人の考えなんだろうか。twitterを日常的に使用しててもまともな長文が書ける人を最近は非常に尊敬してます。
なんにせよ、「話題」がないのに、自分の存在や生活を表現できるのがtwitterであります。10年くらい前のネット情勢と変わってるのはやっぱりそこで、ブログだろうがサイトだろうが、明確なネタを仕入れて、プロット立てたり推敲したり(テキストサイトの系譜だろうけど、イラスト系でもなんでも日記でも、読ませる事を凄い意識してた気がするし、人の日記も凄く楽しみにしてた)っていうのがあったし、htmlの知識がない人はそのフィールドに立つ事もできなかったんだよね。絵が描けるだけじゃなくて、サイトの構造とかでカリスマ性出してたり。個人でCGI設置してる人も少なからず居て、そういうとこも見られてる感じがあったなあ。今の環境を考えるとバカバカしさすらあるかも。何でもひとりでやることと、SNSでお金かけて沢山の人もいて作ってくシステムじゃ、ユーザー側が得するのは後者に決まってて、そうやってmixiだとか、pixivだとか、ニコニコだとか、人が人を呼びってでっかくなってったんだなあ…。結局、上記のもののアカウントは全て消しちゃったけど、それも時代の流れなのかもしれない(し、私の心境の変化かもしれない)。SNSどうたらって5年は前の感覚だもの。
じゃあ今ここはどこだろう。

今は、東京に住んでて、それ以上でもそれ以下でもない感覚がしてきてる。ネット上の性格や立場と、現存してる自分を分ける必要がなくなりつつある。それは私だけじゃないんだろうけど。2つの自分を演出する余裕がないってのもそうなんだけど、バーチャルな感覚で居たら損しかしないくらい今身の回りが充実してるからだ(私自身が充実してるかは置いといて!)。地続きに人が存在してる感覚がする。ネットやっててもみんな同じ大地に立ってる感じしかしなくて、匿名だろうとなんだろうと、こいつも飯食ってうんこして寝るんだと思うと今までと見え方が違う。そうやって考えると、世界は広くて広くて、人は多くて多くて参ってくる。
で、結局やること、やれることは一つだけ。目の前の事を、やる。どんな講釈を垂れても、自分を取り巻く環境が突然変わる事も改善する事もない。だから、生きて行く上で当たり前の事をやるのが、何よりも近道なんだよねーーーあーーーわかってるわかってる。わかってるんだけどなー!!
しかしわかってる事ができないっていうのは、それはもう情けない!!わからないことが出来ないのは仕方ないけどわかってるのにできないのはやらないだけでしょーーーがーーーって
こんな話すら、10代の頃のブログに書いてる気がする…。今同じ事言ってるなら10代で言ってる方が偉いじゃないか。過去の自分に腹立ってくる。過去の自分の正論ってどうしてこうも刺さるのかしら…。

まずさ…モニターがでかいよね。こんなに要らないよね?現実逃避窓口でかすぎるよね。
だから本当、iMacは27インチもなくていいんだよって、3年前の自分に言いたいよね。


そんなことより
ポール・マッカートニーのライブ行ってきまーーーーす!!!!やったーーーー!!!
オペラグラスのこと今までバカにしててごめん欲しい でも肉眼で見たいしどうすればいいんだよ。あ〜〜ディランの時もクラプトンの時もぜーんぜん顔見えなかったし乱視悪くなって来たし。
しかし思うね現実は総天然色だってね。葬式やってる場合じゃねえ。